コロナ禍とマスク依存

 新型コロナウィルスの広がりは、「マスク」の地位を服と同じ高さまで持ち上げた。

 外出をするとき私たちは何を持っていくだろうか。何を着けていくだろうか。

パソコン、本、腕時計、スマホ……人によっていろいろあるだろう。しかしほとんど全員同じものがあるはずだ。それが、服、そしてマスクである。どこに行くにもマスクを着けていなければならない。もともとマスクを着用しがちな日本人ではあるが、それでもこのマスク漬けの生活に最初は戸惑いがあったであろう。今ではそれが普通、着けていないのは全裸同様、そんな価値観になっていると思う。世間ではこの半マスク強制に嫌気がさし「反マスク」を掲げる人まで出てきている。今までそんなことがあっただろうか。もちろん、TPOを弁えていないと判断され注意されることはあった。しかし、着用自体を敵視する、また、非着用自体を敵視する、そういった自然的マナーの地位であっただろうか。私は、社会自体がマスク依存になった、そう考えている。社会が普遍的マナー違反を排除する、そのマナーにマスクが組み込まれたのだ。

 さて、先ほど使った「マスク依存」という単語、これに聴きなじみがある人はそう多くはないだろう。私もここ最近「新現代病」として取り上げられたのを見たくらいだ。マスク依存とはその単語の通りで、「マスクを着けていないと落ち着かない、恐怖感がある」というものだ。

 かくいう私もマスク依存である。小学六年生の半ばごろからもう5年以上は外出時に必ずマスクを着けている。学校はもちろん、ゴミ出しに行くにも常にマスクを着けないと無理なのだ。「なんでマスクをいつも着けてるの?」そう問われることも少なくはなかった。そのたびにあいまいな返答をしてごまかしてきた。なんなら怒られたこともある。私は理不尽だなと思いつつも、客観的に考えて「常にマスクを着けている」という異常さに納得はしていた。そんな中だ。新型コロナウィルスの広がりによりマスクの着用が義務付けられたのは。マスクについて言及されることも一切なくなり、普遍的な生活がやっと送れると少し感じた。誰もがマスクを着けている、どこを見ても、どこに行っても。これが常識の変化というものなのか。ただ、この手のひら返しにある種の恐怖も覚えた。このまえまで異質とされてきた「常にマスク」が今では世界の常識なのだ。あんなにマスクに文句を言っていたあの人も、「マスク依存を直そう」と言ってきたあの人も、必ずマスクを着けている。流石は「社会的存在」で、社会という生き物の向く方向にしか大半は進もうとしない。マスクを着けている人々を見ると、その奥底にある社会の糸のつながる先に私は少し恐怖するのだ。

 ここまで見れば、「コロナ禍でマスク依存が生きやすい世の中になったよ」という、一つの逆張りにしか見えないだろう。しかし私が伝えたいのはこういうことではない。コロナ禍はマスク依存にとってのバブルなのだ。

 これまで散々と書いたように、今この社会はマスク依存にある。それはもちろん、新興感染症の感染対策の結果ではあり、「マスクを着けていない人は社会にとって危険であるから排除する」という社会構成員の理念だろう。そしてマスク依存である私はその環境に少しの喜びと少しの恐怖を感じている。

では、新型コロナウィルスの感染拡大が収束したらどうなるだろうか。人々はコロナ禍以前の生活が戻ってきたと喜ぶだろう。好きな場所に、好きなイベントに、なにも憚れることがなく、人生を満足に謳歌することができるのだ。そして、マスク着用の義務から解放される。もう無理をしてマスクをする必要はないのだ。……そう。今度は「マスク」が社会の敵になる番だ。もう新型コロナウィルスの脅威を考えなくていい、だからマスクなんて必要ない。趨向は「脱マスク」。人々は「マスクをもう着けなくてもいい」ということを「新型コロナウィルスへの人類の勝利」の象徴として掲げはじめる。これは同時に「マスク依存差別」を引き起こす。元来「マスクは病人が着けるもの」という常識で生きていた人たちは、新型コロナウィルスによるさらなる印象付けによって、マスク依存の人たちが「もう新型コロナウィルス対策なんてしなくてもいいのに過剰に怖がっている狂った人」というものにしか見えなくなるはずだ。これは被害妄想ではない。流行りものだってそうだ。「個人的にハマらなかった人」を世間は「流行を嫌う逆張り」と冷たい目で見ているだろう。私はその世界がいつか訪れるのがとても怖い。怖くて仕方がない。コロナ禍というマスク依存にとってのバブルが崩壊した後、マスク依存の人には後ろ指をさされるような世界が待っている。

 「多様性」を謳う現代社会は「固定観念」からの脱却によって達成されるのだろう。