記「エモ頭痛」

 解けたら嬉しくて解けなかったら悲しい。そんな当たり前なことがどうしても新鮮に感じてしまう。いや、既感でなく感じる。私は理論に則り計算をするのが好きだ。好きなのだろう。私はじっくり考えたい。その問題に真摯でありたい。だから、どうしても学校のテストのシステムが体に馴染まない。決められた時間の中で記憶を駆使して問題を解く。それは果たして真摯な姿勢なのだろうか。問題は「解ける」「解けない」だけなのだろうか。形骸化した能力検査のためだけに勉強するこの教育システムが体に馴染まない。明らかに手元に理論や方法があった方が上手く問題解決できるはずなのだ。短い時間の中で記憶だけで仕事をしろなんて言ったらTwitterで晒されて会社の信用は傾くであろう。もしかして学校の試験は「問題解決能力」や「理解度」ではなく、「言われたことを当てはめる能力」を量るためにあるのではないのだろうか。いかに授業で言われたことを覚えているか、いかに演習でやった問題の解法を覚えているか、そしてそれをヒント無し記憶のみで組み立てられるのか……そういったことを視ているのではないのだろうか。こういったことを考え無しに実社会に結び付けるのは悪手だが、結局そういうものなのだろうと思ってしまうのはしようがない。マニュアルをいかに守るか。そういうものが社会なのかもしれない。私は学校の勉強を「目の前にあるタスクをこなす能力育成」と位置付けてきた。だが、こういう考えに至ってしまった以上「目の前にあるタスクをこなすために必要な記憶を入れる訓練」と訂正せざるを得ない。画一的な思考能力。統一的な仕事。それだけ見ればいかに扱いやすく、ある種の柔軟さがわかる。背景化されたこういう基盤の上に国際意識・個人主義が積もってしまったために、昨今の日本のような奇怪で混沌とした「意識高い系」が生まれてしまったのだろう。

 正解はない。ただ、答えはある。

 人間って異様に歌が好きだよね。かくいう私もそう。「音痴」「リズム難」「小声」の歌ヘタ三拍子がそろっている私ですらそう。人は黙っていられないのだろうか。逆にそう思ってしまうほどにメロディリズムが好きだ。簡単に手に入る麻薬。歌が儀式だったのがよおくわかる。人間は奥底でも、表層でも、歌を愛しているのだ。そういうものなのだ。世の中に理由のないものはない。ただ、理由の必要ないものはある。

 「~はない。ただ、……はある」って構文好きすぎんか。