「あのさあ、俺らってどっちだと思う?」
「どっちって?」
ある暑い夏の日。学校が終わった彼らは、青い、どこまでも続いているような、そんな空を眺めていた。背中に少し湿った芝生を感じる。
「いやさあ、結局多数派についてるんかなって」
突拍子もなく。彼からしたらそうでもないのかもしれないが、体感性能の良くないアンドロイドのようだった。
「多数派……ね。考えたこともないわ」
彼女は取り繕うこともなく、ただ遠くの雲に話す。いまいち照準が定まっているのかは彼女も理解していないことだろう。
「いやまあそうなんだけどさ、いまいち自分を感じないというか」
「個性を出したい……と?」
「そうじゃなくて、なんだろ、多数派につくってさ、なんか面白くないじゃん?集合体の中の構成物みたいな感じで」
「あー言いたいことはわかる」
つまるところ、多数派につくというのは有象無象になることなのであろう。もちろん、しっかりとした論拠を持っているのなら話は変わるのだけれども。人数でものを見る人たちは基本的に個々の意見を重視しない。最終的な結論しか見ていないのだ。
「別に少数派になりたいとかではないのだけどね」
「うーん、自分の意見をもっと見てほしい的な?」
「まあそんな感じ?」
一般に少数派であるほど論拠を求められる。多数派は心理的余裕があり、それゆえに自身の意見よりもすでにある意見に引っ付く。少数派はそうはいかない。少数派は多数派よりも優れていることを証明する必要があるのだ。脳死した集団を説得するのは楽ではない。
「多数派が悪いとか、少数派が気取ってるとか、そういう次元なあたり……じゃない?」
「それはそう」
「でさ、結局のところよ?極論ね?少数派も多数派じゃん?」
「見方によってはそうだね」
多数派と少数派に分かれているとき、人々はその二つの論のみを認識する。他に論があろうとなかろうと、それらの意見がすべてなのだ。だからこそ、人数的な評価というのは意味がなく、むしろ議論の泥沼化を生む。最初のころは互いに慣用的な部分もあるのだけれど、時が進むにつれてそういった多様性的な考えが失われていく。残るのはただの頑固な姿勢で、そんなものでは議論などできるはずがない。
「僕はさ、もっと個人単位で物事を見るべきだと思う」
「それが正しいのはわかるんだけど、膨大すぎて寧ろな感じする」
「時代はネットよ?意見を主張する自由もあるし、意見を見る自由もある」
「でも、ネットのおかげでより個人の意見が埋もれやすくなる気もするんよ」 確かに、ネット、特にソーシャルメディア、の発展で個人の意見提出のコストはとても低くなった。それは粒だった意見群の生成を実現させるとともに、賛同と否定の固定化を生んだ。言うだけタダ。そういう考えは良い意味でも悪い意味でも個人の自由を持たせる。脳死で多数派につくことに抵抗が無い人たちは、より個を失いただの集合体となる。もともと多数派であったものも少数派であったものも力を持つ。そこに入っていない意見はより力を失う。ソーシャルメディアの発展は人々にチャンスを与えただけなのだ。
「話ってまとまらないね」
彼はそう言うと立ち上がり、大きな木を眺める。ざわざわと風に揺られ、まるで大きな怪物かのようにのっそりしている。
「話は話すためにあってさ、まとめるためにあるわけではないと思うよ」
私もつられて立ち上がる。長い事芝生に背を預けていたおかげで、立ち眩みする。暑い夏の空気が湿った空をなでる。